崩壊と創世の狭間で~東日本大震災に学ぶこと~

1「福島」を語り伝える意義

2011年3月11日14時46分に岩手・宮城・福島三県を襲った震度6~7の地震と津波は、多くの人の命を奪い、住み慣れた土地を壊滅状態にした。中でも、福島はその後に続く原子力発電所の爆発事故のために、立地地域であった双葉郡8町村が全町村避難の指示を受け、10万人以上の人が避難生活を余儀なくされることとなった。未曾有、想定外という言葉がまさに当てはまる災害、それが福島の災害である。地震・津波といった自然災害に加え、原発事故という人災が加わったとき、社会は?人々の暮らしは?自然は?たくさんの疑問に答える「被災者としての義務」があると考え、私達は「福島」を語り伝えることを決めた。


2 あの日何が起きたか?

2011年3月11日14時46分、富岡町は、震度6強の地震と21mの津波に襲われた。沿岸部の集落が津波の被害に遭い、24名(1名はまだ行方不明)の尊い命が奪われた。電気、水道は止まり、携帯電話も繋がらず、町民は不安の中で一夜を過ごした。翌朝、町の防災無線は「全町避難」の指示を告げた。内閣府からの指示である。7時30分に撮られた地方誌の写真に、富岡町民が延々と車を連ねて避難する様子が写っている。約16000名、6300世帯の町民が、片側一車線の狭い道を川内村へと避難していく様子である。震災の記録は重要であるが、記録に欠かせないのはその時の記憶であり、それを伝える言葉である。この一枚の写真は、何を教えてくれるのか?語る言葉が必要になる。まず、並んでいる車には人が乗っている。その人達は何を思っているのか?95パーセントの人が「すぐに帰れる」と思っていた。原発が爆発すると聞いても、徹底した安全神話は人々から危機感を奪っていたのだ。すぐに帰れるのだから、大切なものは置いてきた。とりあえず車に乗った人々は、しかしこの瞬間から6年間、誰一人この土地で暮らすことは許されなかったのであるところで、大切なものとは何だろうか?家族、友人、学校、職場、田畑、家畜、趣味、花、ペット…考えると私達にとって大切なものは何一つ車に乗せることは出来ない。先祖代々築き続けてきたその土地毎にある歴史も人の繋がりも…つまりはコミュニティが崩壊した瞬間の写真なのである。やがて町民は川内村から郡山市へと避難し、長い避難生活が始まるのである。


3 避難所で学んだこと

富岡町と川内村の住民が避難した郡山市にあるビッグパレット(福島県産業交流館)は、約3000名の人々が5ヶ月間を過ごした県内最大の避難所である。通路、階段、トイレの前まで人がびっしりと詰まり、人々の不安と混乱はピークに達していた。「このままでは人が死ぬ。」せっかく助かった命を守らなくては…富岡町社協、川内村社協、県から派遣された災害復興支援チームの人たちが、ボランティアセンターを避難所に中に立ち上げた。

通称「おだがいさまセンター」の誕生である。町や村の職員もまた被災者である。避難した者もおり、人手が足りない。そんな時、避難している町民からボランティアを募り組織したおだがいさまセンターは、館内に情報を提供する通信を発行して配布したり、足湯ボランティアを実施して避難所暮らしのストレス解消を図ったり、館内に流れるラジオ放送を作るミニFM局を設置したり大活躍をした。避難所の中に、避難者が組織する支援センター、それが「おだがいさまセンター」閉所まで一人の死者も出さなかった。ビッグパレットの奇跡と言われた避難所経営はこの組織の立ち上げによるところが大きい。おだがいさまセンターの実績は、避難所暮らしに何が必要かを教えてくれる。まず「リーダーの存在」は不可欠である。全体の状況を把握して、今どこに何が必要かを判断して指示する。その指示を共有できるチームを作る…このリーダーの役割を果たす人物がビッグパレットにはいた。次に、「交流の場」を作ること。突然の災害、先の見えない不安、不自由な避難所…このような状況で、人は人が信じられなくなる。怒りをぶつける先がわからず、周囲に八つ当たりして孤立する。絶望的な現実の前で、孤立した人間に希望は持てない。花を植えよう。草むしりをしよう。料理を作りたい。ふるさとの祭りをやろう…ビッグパレットでは、ひとりぼっちにならないように、町民の小さな望みを皆で実施する場を作った。交流の場を設ければ、必ずそこには自治が生まれ明日への希望が生まれる。人を救うのは、人と言葉を交わすことであり、人を明日に向かわせるのは人の笑顔であることを、避難所は教えてくれた。


4 富岡町の現状が語ること

5ヶ月の避難所暮らしの後、仮設住宅・借り上げ住宅(アパートや借家)での暮らしが6年間続き、昨年4月1日から富岡町は一部を除いて避難指示が解除された。「よかったね。富岡町はもう大丈夫だね。」と言われると、複雑な気持ちになる。避難は一斉であった。しかし、解除されたからと言って一斉に町民が戻ってくるわけではない。6年の歳月は、人生を変えてしまう。学齢の子供達は転校しそこで友人も出来、進路も決まっていく。避難先で就職した者もいる。原発事故の後、まだ生活するには危険だと考える者もいる。町の中には、解除されない地域もあり、バリケードが町を分断している。帰らないと決めた者、もう住めないと判断した家、解体工事が進み更地になった場所が増えていく。反面、新しい駅が建設され、常磐線が開通した。4月からは小中学校も再開する。図書館も開館する。現在、富岡町の住民は458名(3月1日現在)、震災当時の3パーセントに満たない。町民が沖縄から北海道まで全都道府県に避難している町。コミュニティが崩壊した町。しかし、この町は理不尽に強いられた避難生活の中で人が人と繋がることの大切さを知った町でもある。懸命に「新しい町」を創世していく姿を学べる町でもある。


5 さいごに

富岡町の震災の実際と、現状を知ることは「福島」を知ることであり「福島」を知ることは「日本」を

考えることになる。原発事故という人災について、崩壊したコミュニティをいかに再構築すればいいかについて…

「知る」こと「学ぶ」こと、共に「考える」人が増えていくことが復興を支える力になると信じている。


NPO法人 富岡町3・11を語る会 代表

青木 淑子

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